荻村伊智朗(おぎむら・いちろう)
1950年代、世界の舞台で活躍。「フジヤマのトビウオ」と言われた水泳の古橋広之進氏に次いで「世界のオギムラ」は戦後間もない日本人に大きな勇気を与えた。
卓球と出合ったのは伊東西小学校に通っていたころ。母親と家の廊下で「ピンポンを楽しんだ」のがきっかけだった。小二の一学期で東京都三鷹市に引っ越した。一時は体操、野球などにのめり込んだが、高校に入ると、木を寄せ集めた台で卓球をする仲間の姿を見たことから、再び卓球への情熱が燃え上がった。
1954年(昭和29年)の世界卓球選手権ロンドン大会で初出場ながら団体、シングルスで優勝。「街頭でカンパして集めた八十万円。当時としては大金」を持って参加した大舞台で、世界チャンピオンになった。21歳の時だった。
以来連続八回世界選手権に出場し合わせて12回の優勝を勝ち取るトッププレーヤーとなった。
現役引退後も指導者として大きな力を発揮する。卓越した語学力と幅広い人脈で、国際交流でも大きく貢献した。
1971年には米中ピンポン外交の根回し役を果たした。1987年には世界卓球連盟会長の要職に就いた。柔道など“国産スポーツ”以外では、日本人初の国際スポーツ組織の会長だった。「卓球を五本の指に入る人気スポーツにしたい」という荻村氏は、ボール、卓球台のカラー化、賞金大会などさまざまな企画を打ち出した。1991年の世界選手権では南北朝鮮統一チームを誕生させた。
「卓球にはピラミッドではなく二つの山がある」が持論。一つは世界のトップを目指す競技としての山、そしてもう一つは卓球を楽しむ山だ。「世界を狙うには、恵まれた素質を持っている人でなくては目標を達成できない。しかし卓球は生涯楽しんでできるスポーツでもある」と力説していた。
1994年12月4日、肺がんにて死去。享年62歳。
孫基禎(そん・きてい、ソン・ギジョン)
日本植民統治下の当時の朝鮮から「日本代表」として出場した1936年のベルリン五輪マラソンで金メダルを獲得した。2時間29分19秒2の五輪新記録での優勝だった。
ベルリン五輪で優勝した孫選手の写真を、ソウルの新聞がユニホームの胸の日の丸を消して掲載し、発行停止処分を受ける「日章旗抹消事件」が起きた。植民統治下での抑圧をはね返した孫氏の金メダルは、民族の誇りを象徴する快挙として韓国では長く語り継がれている。
戦後は大韓体育会副会長、韓国陸上連盟会長などを歴任。地元開催となった八八年のソウル五輪では組織委員会委員を務めたほか、開会式では聖火ランナーとしてメーンスタジアムに登場し、観客から大きな拍手を浴びた。
後進の指導にも力を尽くし、1992年バルセロナ男子で金メダル、1996年アトランタ五輪同で銀メダルを獲得したマラソン強国、韓国の基礎を築いた。